哲学者ほど「理性」を信じていない者はいない哲学に期待しているのはむしろ「俗人」だ|マネブ

マネブNEWS:〔2018.05.26〕絵文字は? 文章量は?? 約1万人の人脈を持つ入 現在の記事数:260981件

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哲学者ほど「理性」を信じていない者はいない哲学に期待しているのはむしろ「俗人」だ


俗人は「理性」や「哲学」を美化している(写真:georgeclerk / iStock)

前回は、言葉の意味の問題を扱いました。言葉には「意味」がへばりついていますが、意味とは何かはよくわからない。漠然と「標準的意味」があるらしいのですが、それに従わねばならないという強制からは原則的に脱出できるはずなのに、われわれは多くの場合、盲目的に標準的意味に従ってしまう。これは、どうしてなのだろうか、という問いを掲げてみましたが、なかなか伝わらなかったようです。

そこで、もう1度、言いますと、述語を「彼の身長は170センチメートルだ」という「記述語」と「彼は不誠実だ」という「評価語」とに分けてみますと、前者の場合「170センチメートル」の標準的意味を変更して使用するのはほぼ禁じられているのに対して、後者の場合、はるかに許容されるように見えます。

評価語でも、拘束のもとにある

こう語るとき、私は各個人が「不誠実」にそれぞれ固有の意味を付与していい、と言いたかったわけではないのですが、「非哲学的な人が無視している『語義の個人差』」というタイトル(これは編集者がつけたもの)、によって、そう誤解されたようです。だが、じつは、評価語でも、文脈によってかなりの拘束のもとにある。

例えば、「不誠実なところが彼の短所です」とか「私は、彼が不誠実だから嫌いです」という文章の意味は誰でもすらっとわかりますが、「不誠実なところが彼の長所です」とか「私は、彼が不誠実だから好きです」いう言葉を聞いた瞬間、にわかには理解できない。そこには、深い(複雑な)意味があるのだろうと推量してしまう。

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こうした事例でわかるとおり、評価語においても各自勝手に個人的意味を付与することが許されるわけではなく、標準的意味から逸れて使用する場合、発話者に「説明責任」が生じるのが普通です。「世の人は誠実ぶっていてじつは不誠実ですが、自分の不誠実さを隠さないところが彼の長所と言えるかもしれません」とか「私は、彼が堂々と不誠実さを貫くそのふてぶてしさが颯爽としていて好きです」と言いかえてはじめて、他人は標準的意味からずれた「不誠実」という言葉の使用法すなわち意味を許してくれる。

このことから見えてくるのは、普通の会話において、じつは長所・短所、好き・嫌いでさえ、それに付与する意味は、個人の自由に委ねられていない。反撥を買う以前に、まるでわかってもらえないという強制のもとにあるのです。そして、3000年に及ぶ長い哲学の歴史において、言葉の意味に関するこうした問いが生じたのは、ごく最近(20世紀になってから)である、ということも知っておく必要がありましょう。

それ以前までは、デカルトもロックも、ヒュームもカントも、ヘーゲルもキルケゴールも、(事実上標準的意味を大幅に変更して固有の哲学を構築していますが)そのこと自体を問題にすることはなかった。しかし、二ーチェからじわじわとこの問題が哲学界を侵食しはじめ、フッサールやフレーゲあるいはヴィトゲンシュタイン以降、哲学における最大の問題になったとさえ言っていいでしょう。

さて、これで、ようやく今回のテーマにつながりました。ヒュームは全人類を「俗人(vulgar)」と「哲学者(philosopher)」とに分けました。というと、また物のわかっていない人は、前者が低級で後者が高級だと思い込んだうえで、「威張るな!」とからんでくる(大森荘蔵先生は、常々「前者を「まともな人」後者を「まともでない人」と訳すべきだと主張していました)。

そういう批判を覚悟のうえで、便利ですから以下この呼称を利用しますと、いつも「哲学塾」で痛感することであり、この連載をしていても(多くのコメントから)感ずることですが、俗人の見解と哲学者の見解は見事にずれており、あえてまとめてみれば、俗人のほうがはるかに(いわゆる)哲学を尊重し哲学に期待しており、哲学者のほうがはるかに(いわゆる)哲学に対する軽蔑と不信感に満たされている。

数々のコメントにおいても、「哲学者がそんな些細なことにこだわっていいのか」とか「そんな軽薄な思考法では、哲学者の風上にも置けない」というふうな批判が多いのに対して、「哲学者たるもの、そんなに真剣に考えていいのか」とか「そんなに厳密に考えては、哲学者として失格だ」という批判は皆無といったところ。俗人は哲学について何も知らないながらに(知らないからこそ)「哲学」とか「哲学者」という言葉にこびりついている因習的意味を変えようとしないのです。

哲学に足を突っ込んで10年も経てば、「哲学」がいかにくだらないことであるか、この世で哲学者ほど下品で不誠実で卑劣な(以上にはくれぐれも標準的意味を付与すること)輩などいないことは、身に沁みてわかっている。そんなことは、もうア・プリオリ(必然的かつ普遍的)な真理なので、同業者たちは口に出して言わないだけなのですが、これが俗人には絶望的に伝わらない。

まず「哲学」を天にまで高めてから、それに従事する個々の「哲学者」を「それでは駄目だ」と叱咤激励する、あるいは「嘆かわしいことだ」と裁く。まさに「哲学」や「哲学者」という言葉の標準的意味を変えようなどとは微塵も思わずに、こちらにズカズカと入ってきますので、たまったものではありません。

「知の枠組み」を脱する難しさ

これは、(「思想家」ではありますが、断じて「哲学者」ではない)ミシェル・フーコーの言葉を使うと、各時代の「知の枠組み(エピステーメ)」の問題であり、哲学の実態を知らなくても、(ちょっと頭のいい)俗人は、この枠組みに見事なほどはまってしまう。そして、「永遠の真理などあるわけはない」とか「他人が何を考えているかわからない」とか、「同じ言葉でも時代や文化によって意味は多様です」という、いまや現代のエピステーメに完全にとらえられていながら、「そんなこと、あたりまえ」と思い込んでいる(前回のコメントで「あたりまえ」と言った人も同族でしょう)。

こういう問いを小賢しい塾生が発するたびに私は注意しますが、というのも、「素人さん」ほど、「理性的に考えればすべての真理を解明できるはずだ」とか「1つの普遍的善があるはずだ」とか「世界には究極目的があるはずだ」という発言をすることは絶対ないからです。しかし、これらは、200年前のカントの時代にはごくごく普通の人がもっていた信仰であり、疑うことはなかった。

哲学塾において教えるのが一番難しいのは、デカルトやカントやヘーゲルの文章を理解することではなく、彼らが絶対に疑おうとしなかった知の枠組みの「うち」で動いていたこと。デカルトからヘーゲルまでは、大まかに言って、「理性」に対する絶対的信仰があり、その「理性主義」という共通の土俵から「そと」に出ることなしに、哲学者たちはしのぎを削っていたのです。

正確に言いかえると、天才的哲学者たちは無謀にも1歩だけその「そと」に出ようとしたがゆえに、歴史に残っている。知っていますか? デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」などという「暴言」を吐き、(神ではなく)人間的自我を原理としたために、危うく火あぶりになるところであり、カントは、理性を「批判」したために、『純粋理性批判』は19世紀には禁書になったのですよ。

ですから、素人さんに、神には概念によってではなくひたすら信仰によって到達できるというキルケゴールの考えを教えるのはさほど難しくないのですが、概念によって神をも含むすべてのことを一通りの仕方で語れる、という(キルケゴールが批判した)へーゲルの理性主義を理解してもらうのはきわめて難しく、「神の死」によりもはやいかなる絶対的価値もない、というニーチェのニヒリズムを教えるのは簡単なのですが、彼がそれによって狂気に陥った、ということをわからせるのは大変なこと。言葉の意味はその使用法であるというヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を理解させるのはそれほど難しくないのですが、言葉には一義的な正しい意味があるという伝統的見解を伝えるのは至難の業です。

奇妙な「逆転現象」

いいでしょうか、前にも言ったように思いますが、世界中の大学の(わが国を含む欧米系の)哲学科では、ここ100年のあいだ、猛烈な理性主義批判が燃え盛っている。みなが、理性に対する批判に没頭し、わずかにも理性を信頼するなどという「軽口を叩こう」ものなら、コテンコテンにやっつけられる。みな、獲物を捕らえた猛獣のように、とうとうと普遍的真理などない、普遍的価値などない、ことを情熱的に力説したあとで、「理性信仰は捨てろ!」という恐ろしい魔女裁判が進行しているのです。

そして、巷では依然として俗人たちは「理性」や「哲学」を美化し、「もっと理性的になったらどうだ」とか「彼は、理性を失ったように怒鳴り出した」とか「やはり、どの分野でも哲学が必要ですね」とかヌケヌケと語る「理性信仰」は滅んでいない。  

こうして、現代の(日本を含む)欧米型社会では、哲学者だけが理性を信じることがなく、他のすべての人(俗人)が理性を信じている、という奇妙な「逆転現象」が生じているのですが、これを俗人のみなさんにお伝えすることに義務と喜びを感じますので、この連載をしばらく続けようと思います。

1つだけ蛇足を。私は20年以上も前から(『哲学の教科書』〈講談社学術文庫〉)、意図的に「ですます調」と「である調」や「だ調」を混ぜこぜにして使うことにしている。「ですます調」を使うのは、は読者に語りかけるという姿勢が出るからですが、あまりこれを連発すると文章末尾の「締まり」がなくなってしまう。そこで適度に「~だ」とか「~している」とか「とてもいい」とか「~と思う」という調子を混ぜて「変調」するのです。私だけだと思ったら、円地文子、曽野綾子、遠山一行などの玄人の文章にこの「技」を見つけて嬉しく思った次第ですので、今後もこの「技」を続行しようと思います。

マネマガ
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引用元:東洋経済オンライン

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